わたしのものではない人生
というタイトルの小説を書き、2019年のいつかから2020年の頭まで、ある五大文芸誌の編集者と直しのやりとりをしていた。
その後、掲載に向けて編集長に見てもらいましょうということになって、変わったばかりの編集長から「このままでは載せられない」と言われ、ボツにされたという経験があった。
当時は、1年近くやりとりしておいてさすがに編集長の一存をそのまま伝えるってどういうこと? せめて直しを重ねてきて「これは良い小説に違いない」と編集者として信じていた部分を押さえながら、「このままではダメ」=直しませんか? という話ならわかる、と憤慨した。
その宙吊りになっていた小説について、立派なカバーとかつけてなくても、組版を工夫すれば70ページくらいの冊子にできるのではと、自費出版の道が思い浮かんだ。
しかし、改めて読み返し、再度直しをしたものの、何かがうまく行っていない気がして組版とかそういう具体的なプロセスに入れていないでいる。
ただ、そこに書かれていることや、書こうとしていることには、何か自分がやらないといけない、他に誰もやらない何かがある気がしていて、捨てきれずにおり、12月から読書や映画鑑賞やバイトや他の執筆のあいだにその「何か」がなんなのかを考えるためのメモをつけ続けている。
ひとつ思ったのは、この小説の舞台であるバンコクが、わたしは好きだということだった。
タイには、2012年から、コロナ禍に入っての数年を除いてほぼ毎年、15回以上訪れている。
単に「タイは安い」とか「タイは微笑みの国」といった、観光用のキャッチコピーとは違う、都市生活の様子に惹かれたり、日本との差を感じたりするなかでの、大まかに言っての「好き」という雑感を、長年の滞在を通して得ている。
2022年の夏に、文芸誌や新聞・週刊誌などで広く文学に関する執筆経験や連載枠を持つ、年長のある書き手の方がトランスジェンダーに対する差別に身を投じるようになった。
トランスに対して反感を覚えるような陰謀論な言説や虚偽の情報をみずから、メディアやSNSで綴ったり、拡散したりするようになり、その人とも面識があり、ある特定のテキストにおいてはわたしも「おもしろい」と感じていたこともあったため、脅威と落胆を感じた。
また、「表現の自由」「思想弾圧」に類する強い言葉で、その方を擁護する文学や一般向け人文関連のメディア関係者も、著名人含め目につくようになり、その産業で仕事をしてきて、今後も続けたいと思っていた労働者・表現者として、「誰を信じたらいいのか?」と不安を強くした。
そんななか、仕事のお付き合いのある文学関連の出版社勤めの方々や、わたしよりキャリアがあり社会的な評価が高いと客観的に言えるだろう書き手の方々に、これらに関わる不安や、個別の事案の問題の指摘などを秋にかけて数ヶ月のあいだ、共有してみたけど、「一部のおかしな人が騒いでいるだけ」とか「あの人はオワコン(なので気にしなくていい)」というような反応があった。
労働の現場における不安を共有し、どうすれば解決、あるいは良い方向に向かえるかという相談をしたかったのに、大したことないと扱われているように感じられた。
一方で、その後、わたしにはお誘いや懸念や痛みに関する聞き取りの話はないのに、著名な作家や編集者など版元の正社員向けの「トランスジェンダーに関する勉強会」が開かれている、という話を何度か聞き、その産業内に、トランスである脆弱で攻撃対象になりやすいアイデンティティを必要に迫られて開示してきた労働者が目の前にいても、その個人は見ないで情報だけは摂取するのかという印象を持ち、別の落胆を覚えた。
そんななかで、わたしが優れた文学の書き手だと思うトランスである年少の方に、その方が自費出版・リトルプレスのプロセスにわたしより明るいと思ったこともあり、声がけをし、いっしょにタイについてのZINEを作らないかという相談をした。
ちょうど、健康に関するトラブルがあり、保険金のような、想定していなかったある程度まとまったお金が入ったタイミングもあり、主流の(文学)メディアが無視するのなら自分(たち)でやってみるのはどうかと思ったのだった。
また、「(規範的な)“男/女”とは異なる(異様な)存在」として、そのアイデンティティを肯定するための医療的なケアとしてのホルモン投与やさまざまな手術について「取材」するような本や記事はあっても、トランスである人々の個々の生活実態への敬意を持った接点作りや、いち人間に対する関心や手助けの文脈での出版というのが見当たらない、ということも動機のひとつとしてあった。
わたしの初めての海外渡航としてのバンコク旅行も、医療ケアと関わりがあるのだけど、わたしと違い、よく聞く同じような医療ケア目的のタイ渡航の経験は、病院と回復のための滞在先ホテル・アパートの滞在の思い出が多く目につき、わたしの好きなタイのファッション、コーヒー、マッサージ、美容や健康に関するあれこれ、典型的な「タイ料理」以外のさまざまな食事、現代美術や、歴史と土地の変遷といったものとの接点はほとんどなかった。
なので、リトルプレスであっても、「またタイに行ってみたいな」とか「行ったらこういうところを訪れてみたい」とか、ネガティブな痛みの経験以外の何かを得る出版ができたらいいのではと考えたのだった。
結局、その出版話はいろいろあって頓挫してしまった。
けど、わたしがなぜ、タイというかバンコクに興味を持って行き続けているのかという意識があって、そこから何かZINEやリトルプレスとして出せないかというアイディアはずっと残り続けている。
ということもあって、このニュースレターのタイトルにした小説を、自分で出したらどうかと思ったのだった。
以下に、その小説の一部で、バンコクに関する記述の箇所を抜き出して掲載してみようと思います。
先に書いたように、そのまま出版ということにはならないと思うのだけど、もし「全体としてどういうものが書かれているか読んでみたい」とか「(小説に限らず)タイに関するテキストが気になる」と思われたら、likeを押して反応してもらえると参考になるので、よろしくお願いします。
ヘッダになっている写真は、去年バンコクに行ったとき訪れた、バンコク友達の友達がやっている、ジャルンクルン通りにあるNYスタイルのピザ屋「Kick! Chop! Slice!」で撮ったもの。
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私はスニーカーを脱いでサンダルに履き替えた。台湾系アメリカ人のデザイナーがブラジルのブランドとコラボした、淡いピンクのトングサンダルをこの旅のために買っていた。
ホテルから十分ほど歩くと、この街の中心部を走るモノレールの高架が見えてきた。バンコクスカイトレインと名付けられたこの電車は、社員旅行のときにはじめて乗った。七年前、BTSという略字をガイドから教えてもらった。高級ブランドが買えて、高架鉄道と地下鉄があって、伝統的なタイ料理以外のおいしい料理も食べられて、東京と同じように思えるけれど、BTSの三文字の響きからは、東京が辿ってきたのとは違う未来、別の都市の響きがする。
BTSに乗ると感じる寒さから、私はバンコクを実感した。エアコンの強い風が、外気と徒歩で火照って汗ばんだ私の身体を急速に固めていく。一人分ずつにくぼんだ硬質な座席に座ると臀部から冷えていく。腰に巻いたユニクロのパーカーを羽織った。向かいでは横一列に並んだ人々のほとんどがスマートフォンの画面を覗きこんでいる。私は、iPhoneを見るのをやめて、同じくユニクロで買ったグレーのワンピースのポケットに突っ込んだ。
窓越しに、駅に隣接する巨大なショッピングモールの姿が流れ、そのすぐそばの建設途中の骨組みの基礎も遠ざかって行った。このあたりはずっと開発が続いている。スターバックスやマクドナルドのロゴも見えた。
サイアムでBTSを降りると、荒っぽい空気が肌に当たった。ガラス張りの側面に金色の屋根が乗ったサイアムパラゴンの入口が駅構内から見える。眩しく光を反射する巨大な建築物の中を通り、ラマ一世通りに降りると、肉の塊が積み上げられた屋台があって、濃厚な調味料と共に焼ける匂いやスープの香りが熱く漂っていた。並びには、おびただしい量の色鮮やかな果実が取り揃えられ、高く積み上げられたジュースの屋台がある。首を上げると高架の裏が見え、その下をバイクと車が走り続けていた。
果肉が弾けそうなざくろをその場で搾ってもらい、赤い鮮烈な果汁が舌先から喉の粘膜の奥の襞へと染み入り、渇きを潤す。荒っぽい甘さが鼻腔へと抜け、瑞々しい水分が胃を満たしていく。「得するのは警察。あいつらは無許可の屋台から賄賂をもらっている」と太郎が言っていたのを思い出す。正義みたいな話を太郎はよくしていた。私は確かにそういう太郎に初めは惹かれていた。でも段々と、目の前でおいしいとか、楽しいとか、ただそう言いたいとき、そういう単純なことを言う自分がまるでバカで、鈍感で、まちがっていると指摘されているような気がするようになった。日本ではこんなに安い金額でおいしくて新鮮なジュースを飲めるわけがない、というのは私だってわかっている。でも、太郎から正しい話をされるたび、後ろめたさばかりが植え付けられるような感じがした。
コンクリートのタイルの上を歩き、わずかに傾斜しほころんでいたひとつに乗ったとき気を配っていたはずの身体は崩れ、軸を失って傾く。タイルの内側に溜まっていた水が足を濡らした。腰に巻き直していたパーカーにジュースが少しこぼれた。どうせ安物だし濃いグレーで目立たないから、と気持ちをなだめた。コンクリートの下がまだ荒れているような歩道は、なめらかに整えられた東京にはない。
渋滞の交差点から車のクラクションがいくつも鳴り響き、その隙間をオートバイがいくつも抜けるのを横目に、私は何度か咳をした。友達と楽しそうに話し、矯正器具をつけた歯を見せて笑う学生服の少女とすれ違った。
バイクタクシーを捕まえて後部に座り、器用に車間を抜けていくあいだ、不思議な重力を感じる。初めてバイタクに乗ったのは、太郎に勧められてで、あのとき私は何度も怖いと拒否した。でもすぐ、それよりもっと前に太郎が、自分が大学生のころ錦糸町のロシア人キャバクラで知り合った女を乗せて鎌倉の方まで行った、と話してくれたあの笑顔が思い浮かんだ。それで、私もいつか太郎の後ろに座ってバイクに乗りたい、と考え直してバイタクに挑戦したのだった。一度乗ってみたら案外平気だった。
地元を離れて東京に住み続けてきたのは、まず仕事があったし、いつかいっしょに暮らすとか結婚するとか、太郎との関係が変わるかもしれないと期待していたし、そういう変化を待つなら東京以外に考えられなかったからだった。そうして十年以上生活してきた場所も、学生時代から勤めていたアパレル業界にもとにかく疲れていて、もう離れたいと考えることも増えた。春夏と秋冬、一年に何着も目にする新しい服に刺激を得ながら、そのルーティンが早すぎると感じる瞬間が増えてきたし、業界の人たちと日々、表参道や恵比寿や代々木上原でランチを取るようなきらびやかさにも飽きていた。と言うより、もっと鈍感な惰性で存在するしかなかったから、目を瞑ってきたことが、急にどうでも良く感じられてきたのだった。それがどういう心境の変化なのか、私にはわからない。太郎とうまくいかなかったから、仕事に疲れたから、ということだけでは表しきれない何かがあるような気がしていた。
バイクタクシーに乗って目指したのはソムタムのおいしい路面店だった。粘膜を刺す辛さが心地いいソムタムを出すあの店。
ソムタムの青パパイヤの歯ごたえに身体は応え、唐辛子に燃える舌から伝う熱が額や鼻の下を濡らし、暑気は背中の温度を上げていった。タイ料理は、肉も魚も青菜も身から汁が弾けて、油や調味料や辛さと口の中でもつれ合い、活力を注いでくれる。その背景で、街の賑わいが音の渦になり、耳を温め、唇の感度を上げてくれる。望にもタイ料理を食べさせたい。ひとりだと、いろんなメニューが頼めないんだと思った
ふと、口中に異物を探り当てた。指先に出してみると、硬質な甲殻類の殻のかけらだった。カニだった。

