持続的な生活のためのノート

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バンコク; ファッションの街、友達の街、ひとりの街
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バンコク; ファッションの街、友達の街、ひとりの街

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鈴木みのり
Mar 29, 2023
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最近投稿する気になれないSNSに「We have an update on your report」という文字列が10個以上並んでいた。何ごとかと思って開いたら、すべてある特定のアカウントの投稿についてで、それらをヘイト行為だと規約に則して認定し、ロックしたという知らせだった。そのアカウントは、ある特定の属性の人々のアイデンティティを名指して“カルト”とまで呼んでいて、ここ数年のあいだそのような投稿をしているのを何度も見かけていた。

アイデンティティの構築とは、まったくの個人の自覚や認識だけでは成り立たない。個人が、またその人と同じ社会に暮らす他の人々が、生まれ、育ち、生活する身の回りのコミュニティや地域社会や国の制度、文化、習慣、歴史のなか/あいだで関わり、影響しあいながら、内外の線引きをともないながら時間とともに、構築されていくのがアイデンティティであるはずだと思う。ニュースの報じ方、テレビドラマのキャラクター、お笑い番組の笑いの対象、特定の基準に基づく「美しい」「かっこいい」「かわいい」「NGコーデ」「エロい」とされる雑誌やネットメディアやSNSに掲載されているファッション、メイク、写真といった、さまざまなメディア表現からも影響を受ける。そこには、特定の集団に属するとされる個人や、特定の属性を持つとされる個人・集団に対する、ネガティブにしろポジティブにしろ向けられるステレオタイプや、嫌悪感情をともなう偏見や、それらが暴力や排除といった行動や制度としてあらわれる差別意識・構造も含まれることがある。
それらにふれることによって、自分が(持つ複数の属性のこれはどう、あれはどう、その組み合わせはこう、といったかたちにおいても)いかに見なされているか? どういう振る舞いや容姿が望ましいか? といったことを問うたり問わなかったりして、引き受けたり、拒絶したり、同じようなことを営んでいる他人との関わりや、それらの集まった社会生活のなかで、さらに変わったり、変わらなかったり、立ち止まって悩んだりするものだと思う。

そのアカウントは、他にもその特定の属性の人々を侮辱する表現をくりかえし、また、その属性を持つことを明らかにしているある個人の言葉じりをとらえて、中華料理の甘酢あんかけにかけて、揶揄するアカウント名にしていて(今は変わっている)、悪質な投稿をくりかえしているとわたしは感じていた。
この時代・社会において、特定の生き方をしている(せざるを得ないとどうしても感じている)人々のありかたに対して、嫌悪する物言いや排除を求める意見や存在自体を疑問視する言葉や、その煽りや、そうしたネガティブな感情を過熱させたり広げたりするデマを撒き散らし、さらに、人権擁護の観点から発言する人たちに粘着しまくっていたのを観測していたアカウントなので、少し胸を撫で下ろす。なんでいきなり一気にヘイト認定? というのは謎だけど。ただ、確認してみると稼働していたので、当該投稿が削除されたらロック解除、という程度の処置だったのだと思う。
あいかわらずひどい投稿や拡散を続けていて、やはり安全なプラットフォームではないのかという落胆や、ここ5年、そのアカウントが行なっていた投稿以外にも、何度も何度も「報告する」という行為をくりかえしてきた無力感に疲れが押し寄せてくると同時に、その行為によって得られることを期待する“安全”も、厳罰化や分断を疑ってもいないと、特定の“監督者”にその安全の采配を委ねる、つまり特定の人々に権限を譲り渡すことにもなるわけで、行きすぎると監視社会になりうるとも言えるから、あまり慣れたくないムーブだなと考える堂々めぐりに陥った。

11年前の4月はじめの日記を読み返すと、こんなことが書かれてあった。


ご多分に漏れて、ローティーンの頃は色気づくことがほとんどなく、高校生の終わりまで着飾ることには興味がなかった。所有できたお金はほとんどマンガと本と映画に費やされ、牛乳瓶の底みたいな超ド級にブ厚いメガネをかけて、ただでさえキツネ目な瞳をかっ開くことなく鋭い視線で、笑顔を作るなんて処世術を覚えず学ばず。
わたしが通っていた中高一貫性の学校は、当時設立されてわずか10年程度で校則は緩く、制服カスタムが横行していた。コンバースにはこだわりがあって(というか他に知らなかっただけだと思う)、SUPER LOVERSの鞄を使って、制服のシャツの上に着るセーターおよびカーディガンをどうするかという点にはこだわっていたけれど。
17歳くらいのころに、「自分は人と違う」と気づいて、その意識を「人と違うのよ、フフン」という自尊心を満たすための優越感のほうに舵を切って、我が校生徒のセーター/カーディガンと言えばラルフ・ローレン VS イーストボーイがメインだった市場を外れて、NICE CLAUPというノンノガール御用達のブランドを着ていた。でもあるとき、「なんでそこ見落とすのか!?」というほどピッタピタだと気付き、そういや肩も動かしづらいし、明らかにサイズが合ってない。当時は「レディースの服を着てる」ということによって、性(ジェンダーのありよう)によって、世界に居場所がないと感じられていた自分に少しでも肥料をあげたかったのだと思う。きっと。サイズ合ってなかろうと無理矢理でも“レディズの服”を着ることでなんらかのふちどりをした気になって、自分への嫌悪感をごまかそうとする、ファンタジーを抱いているだけの時期だったんだろうな。

18歳で上京するころには、好きな格好で、かつ、ちゃんと自分の体型に合うサイズの服を着たいと思うようになった。ただ、たとえば足の毛が生えてる状態で足を出す服装はできない、似合わないって思ってたし、ふくよかな輪郭の胸がないとピッタリ目のトップスを非男性的に着こなすことはできないし、かと言って、ふくらんでいない胸にブラしてごまかすのも変だし、とも思っていた。
それでわたしは、ファッション誌を見て「好き」と思った服のブランドや取り扱いショップにひたすら行ってみた。さすがは都会、ブランドもたくさんあったし、サイズも豊富だし、メンズでもかわいいのがあったし、好きな古着屋もできたし、「女性もの」にこだわらなくても似合うものに巡り会えて、そうして服をどんどん好きになっていって、嫌悪感を抱く身体の代わりに、それを包む服で自尊心を満たそうとした。
20歳のとき、Roba、BLESS、WENDY & JIMなど、ちょっとトンでる、今思うとロンドンとニューヨークのブランド、セレクトショップの服を取り揃えていたお店を大学の近くで見つけ、そこからはハイファッション街道へ。"メンズ/レディズ問わず、自分体型に似合う、中性的な服" にお金を費やすことに。

ただ、4年くらい前から財政状況が急激に悪化して、あんまり服を買えなくなった。医療費がかさむようになり、また、からだが丸みを帯びてくる一方で、骨ばった肩といったゴツゴツした部分も残っていて、中途半端と感じられるからだに合うスタイルがわからず、服選びへの軸がブレてきたというか、投げやり気味で、積極的に選べなくなってきた気がする。
また、スカートは、下着から直に地面へと空間がつながったアイテムで、自分の嫌悪感が向いている部位が公に晒されているようで落ち着かなくて、どうしても穿けずにいた。仮にスカートを選んで外出した場合、万がいち風が吹いて布がめくれてしまうことを想像すると、恐怖しか湧いてこない。

そんな反動なのか、4月にバンコクから帰国して以来、ワンピース熱、スカート熱が上がってます。これまで穿くことができなかったから、という心の動きでもあるだろうし、着回しに使える! 楽! という理由でそろえはじめたということでもある。同じような非規範的なジェンダーであるともだちも、最近足の脱毛があらかた終わったこともあって足を出すスタイルを満喫している、と言っていた。


バンコクに行くと必ず訪れるのが、サイアムセンターというショッピングモールと、その目の前を走るスクンビット通りを挟んで南側の区画の雑居ビルの中にある、wwaというブランドのセレクトショップだ。わたしにとってバンコクは、ファッションの街でもある。チャトゥチャックウィークエンドマーケットや、今はもうなくなった、チャトゥチャック公園の駐車場で週末の夜に行われていたナイトマーケットで、新興のデザイナーを探したり、古着や雑貨を見たりするのも好きだった。

2022年の10月にバンコクに訪れた際も、もちろんサイアムセンターとwwaに行った。さらに今回は、そのwwaが経営している、トンローにあるカフェも訪れた。日本でいう純喫茶的なレトロな古家具の机やソファが置かれていて、古着やそのリメイク、ヴィンテージの雑貨なども売っている。
wwa以外にもkloset、soda、drycleanonlyといったタイのブランドも必ず見る。初めてバンコクを訪れた11年前、手術をして身重なはずなのに、入院した5日間ずっと痛みがなくて、大丈夫と考えたわたしは、ある日、ネットサーフィンして見つけたタイブランド目的でサイアムセンターに行ったのだった。退院後5日ほど経った日だった。サイアムセンターと、併設する巨大なハイブランドのショッピングモール、サイアムパラゴンを5時間ほど見て回り、入院中は痛み止めが点滴されていたから“痛みがなかった”のだと気づいたころには、鈍痛が下腹部から足にまで響くようで、歩けなくなっていた。履いていたのがメリッサのゴム製のサンダルだったから、たぶん、余計に負担があったのだと思う。

バンコクに行った、10年のあいだの写真をひさしぶりに見返した。フライトのeチケットの記録を遡ると、何年の何月に行っていたのかがわかって、データの山からすぐに見つけられる。

わたしと病院を仲介してくれた人から、わたしと同郷で同じようなジェンダーの若者が話を聞きたいのだそうと言われ、紹介してもらった縁もあって、2014年の10月にバンコクについて行った。その若者は、高校卒業後にすぐその街で介護福祉系の職場に就職し、稼いだお金を節約してコツコツ貯めてバンコクにきたという。ベッドに横たわっているその人のそばで、そのとき知り合ったマレーシア人の年長の女性が、うれしそうにプラトゥーナムのマーケットで買い物をしたことを話していたのがすぐに思い出せた。
それから友人になった、そのマレーシア人の女性は、翌年の5月に二人の友人と共にバンコクを訪れ、共に手術を受け、そのうちのひとりのパートナーともうひとりの母と姉の介護のもと、退院後の一定の回復期間をAirbnbで借りたアソークのアパートで過ごしていたことも思い出した。アパートは、地図上では巨大ショッピングモールのターミナル21やアソーク駅から近そうだけど、バンコクのソイ(小道)は行き止まりが多いため、遠回りしないと帰れないし、それに階段で4階か5階まで上がらなければいけない。だから、わたしも含めた身軽な数人で、いちばん近いスーパーであるターミナル21の地下に、お水とか食材を買い出しに行った。その後は、手術したひとりがネットサービスを熟知していたため、当時はまだ珍しかったスーパーの配送サービスを見つけ出して利用していた。

バンコクのショッピングモールは、トイレもきれいで広くて、快適で、外国から来たわたしにとって安全だと思える空間のひとつだ。ターミナル21は、パスポートがあれば、フリーWiFiを借りられるのも良かったし、ひとりでも行きやすいフードコートを何度も何度も利用した。

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