『宇宙船イン・ビトゥイーン号の窓』 字幕での「Mx.」使用の多重な問題と感情 労働としての批評、そして
2年前の今ごろ、チェルフィッチュの舞台作品『宇宙船イン・ビトウィーン号の窓』の英語字幕で使われた、トランスジェンダーやノンバイナリー、ジェンダークィアといった、シスジェンダー規範に当てはまらない言語表現から、その作品構造とテーマ、上演される産業構造にまで射程を広げ、批判する劇評を書きました。
書きたかったというより、書かなければ、(やや大げさかもしれないけれど)自分も持つこの性に関するマイノリティ性の安全が脅かされると感じたからです。
今回のレターは、少しだけ細部を修正したその内容を、改めて発行します。
この文章は、「サイゾー」のメディア「wezzy」に掲載されていましたが、昨年クローズしてしまったため、オンライン上から消えていました。
そのほかにもわたしは、前身のmessyも含めてwezzyで2016年から、自分が執筆仕事をする、文学の世界も含めたメディア産業における、トランスジェンダーとその表象、表現の可能性とその工夫についてや、シスジェンダーを中心とする差別的な産業構造にもふれる文章を、映画やテレビドラマなどの評を通して執筆しようと試みてきました。
その作業を誰かがやらないと、不均衡について誰も考えようとしてくれないから、という切実さからくるものです。
しかし、昨年の11月ある出来事を通して、演劇はもちろん、文学、映画といった、わたしも貢献しようとしてきた産業の従事者や、その愛好者の人たちからも、自分がやってきたことをなかったことにされていると感じられる絶望的な経験がありました。
その経験から、これまで書いてきたものを、そのまま評集としてまとめるのは難しいと感じるし、自分としても「今はこういう書き方はしない」と思える箇所もあるものの、「なかったこと」にしないためにも出版できないかという道を探ってきました。
しかし、それもうまくいかないままです。
今もネット上に残っているわたしがかつて書いた文章のなかで、ほかに引き合いにする先行事例がないと思ったので、自分のパーソナリティの一部を開示してしまったため、特に2021年ごろ激しい差別言説をぶつけられたり、デマを流されたりする際に使われてしまった経験もあり、後悔している部分もあります。
その後悔とも通じますが、これから送る劇評でも言及している、わたしが持つあるマイノリティ性は、表現したいことというより、切っても切り離せないものです。
しかし、マジョリティである多くのメディア従事者の人たちは単純に「表現したいもの(自己実現・社会の変化を求める活動)」と捉えたり、最悪の場合「消費する対象(最近「◯◯◯◯ってよく聞くよね、“当事者”だから聞いてみよう」とか、そういう感じ)」としてしか見ておらず、これまで語られずにきたマイノリティの言葉は、これまで語る機会を得てきたマジョリティの文章表現、言語構造そのものを問い直すという表現の可能性としては見ていないのだと思い知らされてきました。
ここ4年、単著を出さなければ話を聞いてもらえない、同じことを言っていても、高等教育を受けてきて、大学教員や所属先など身分がしっかりしていると思われる人たちの話ばかり聞く、という経験を積み重ねてきたため、焦って本の話を相談してきました。
しかし、ほとんどの版元の人たちは、これまでのマジョリティ的な考えから、「出版の難しさ」を語ったり、新しい出版内容を模索する相談はできず、「目次を出してください」といった機械的な対応をされたりしてきたと感じます。
これは、本がどんどんどんどん売れなくなっている、流通費や印刷費などコストが高くなっている、といった出版不況(と言われてもうだいぶ経つと思いますが)も関係しているのでしょう。
結果として、マイノリティとしての著者が本を出すことの難しさにじっくり向き合うのが難しいのだろうなと理解はするものの、もっと「わかりやすく」「手間をかけずに」コンテンツを用意できる立場だったらこんな不遇にあわずに済んだのでは、と強い自己卑下に苛まれずに済んだのではないかとも思ってしまいます。
一方で、マイノリティ性を開示してしまったり、そのテーマを経由するとマイノリティだろうと、内容の「価値」や「情報」を決めつけられたりして、その心理的な強いストレスや自己否定の感情も、個人として対処するしかなく、誰も守ってはくれないというのが現実です。
この点は、この後の劇評の後半でふれる「誰が評価する」「誰が上演作品を決める」といったテーマとも通じる問いだと思います。
さらに、今回このレターを発行しようと思ったのは、劇評で問うた内容がチェルフィッチュはもちろん、演劇・舞台芸術業界で切実な向き合うべきテーマとして扱われなかったことにも由来します。
批判した作品は、その後、日本では京都、三重、熊本、兵庫(上演された豊岡市では、持続を目指した演劇祭が開かれている地域)、海外では中国、韓国、ベルギー、フランスでも上演され、「世界的に評価されている」と受け取るのが妥当だと思います。
しかし、わたしはこの作品に対してクリティカルな問いを突きつけたつもりですが、演劇・舞台芸術の従事者はもちろん、観客も、この問いを大事なものとして捉えていない。
最近、世田谷パブリックシアターという、演劇・舞台芸術においては「大きな」と言える劇場で、『ここが海』という演劇作品の上演が始まりました。この作品は、女性として結婚するものの、男性としてのアイデンティティを「夫」に告げる人物が主人公だそうです。
そのトランスジェンダーの男性と言えるキャラクターを演じるのは、シスジェンダーの黒木華さんです。
(アメリカではエリオット・ペイジの例もあり、まさにこの作品で描いていると思われる、社会的にずっと生きてきた性別から、決まった年齢なく、その人それぞれの事情・タイミングでトランスする方もいるので、もしかしたら黒木さんもそうかもしれませんし、公表はしていないが実際は周囲にそうだとは話しているという前提の作品かもしれませんが、一般的には公表されていないという意味)
英語圏、特にアメリカでは「トランスジェンダーの役柄はトランスである俳優に」という流れがあります。
これは、
①表象の問題:トランスした男性/女性を移行の過程を経ていない身体のシスジェンダーの女性/男性が演じることで、「トランスの“元の性別”は◯性だ」という潜在的な刷り込みがメディアを通じて広まり、トランスの人たちが実際生きている/生きようとしている性別の/を含むアイデンティティの軽視に加担したり、場合によっては、「トランス女性/男性は男/女だ」というミスジェンダリングやヘイトスピーチの言説を強化してしまう懸念
* トランスとして生きている人の生の経験から来るリアリティを身体レベルで表しきれないという問題点の指摘もあります
②構造的な労働・教育機会からの排除
シスジェンダーを前提とした社会・産業構造や、マイノリティの物語の作られなさ・軽視から、トランスである人々にとって働く・学ぶための基本的な安全性や機会が確保されていないため、労働する機会が乏しいにもかかわらず、その貴重な機会をマジョリティによって奪われる
③性差別の視野の広がりと、そこからの安全と尊厳の確保
②とも通じる論点ですが、シスジェンダーの人々だけでは見えてこない、トランスである人々がどういった言葉づかい、コミュニケーション、制度や意識によって安全性が確保されないかといった視点を共有しにくい
*この点は、俳優としてトランスの人が入るだけでなく、継続的なクリエイティブのコンサルタントとして仕事が確立されることによって、この論点の共有が持続的に可能となる例が、ドラマ『POSE / ポーズ』のスタッフィングでも実践されています(政治家にいろんな立場・属性の人が増えることによって国会で議論される内容が変わることとも似ています)
主にこういった点からの、労働する産業構造の不均衡の是正を求める訴えです。
しかし、作・演出の加藤拓也さんのインタビューなどでの発言や、製作するアミューズの発表する文章からは、その課題に、日本のこれまでのトランスをめぐる演劇・舞台芸術での実践や、現状をふまえてきちんと検討した跡が見られません。
こうしたことから、今回消えていた原稿を改めてレターとして発行しようと思いました。
前置きが長く、さらにネット上に再掲載する劇評も長いのですが、お時間あるときに目を通してもらい、これらの問題についてひとりでも多くの人に考えてもらいたいと考えています。
8月6日に東京の吉祥寺シアターで、岡田利規 脚本・演出による、劇団「チェルフィッチュ」の舞台作品『宇宙船イン・ビトウィーン号の窓』をわたしは観た。この演劇作品は、地球のある国が滅びた後、その文化を残すというミッションを掲げた宇宙船「イン・ビトゥイーン号」を舞台とする。4人の乗組員と1体のアンドロイドが搭乗するイン・ビトゥイーン号には、ある生命体が入り込んでおり、そのきっかけへと遡る。これが大きな話の筋だ。
あらすじを事前に読まずに観始めたわたしは、「サザレイシさん」と呼ばれるキャラクターが登場した際に驚いた。乗組員たちが「サザレイシさん」と呼びかけたとき、舞台上部に表示された英語字幕には、「Mx. Sazareishi」と表示されていたからだ。
わたしは、この作品にノンバイナリーやジェンダークィアのキャラクターが登場するのかと推測したのだった。なぜなら、「Mx.」とは主に、ノンバイナリーやジェンダークィアの人々に冠される敬称だからだ。性的マイノリティのなかでも、トランスジェンダーやノンバイナリーのような、ジェンダーのありように関するマイノリティの表象は、演劇や芸術に限らずテレビドラマや映画などのポピュラーカルチャーにおいても稀で、あっても偏見に満ちていることのほうが多い。それでも、そうした性的マイノリティである自分の似姿を表現のなかに探したり、マイノリティである視点を通して考えていることに表現に値する何かがあると自信を持ったりする機会になるから、求めてしまう。そのため、わたしは不安と期待混じりの驚きを抱いた。
そして、残念ながら不安は次第に強くなっていった。英語字幕から受け取ったノンバイナリー、ジェンダークィア、ジェンダーノンコンフォーミングといった、ジェンダーのありようについて描かれる、触れられるという想定が外れていったからだ。そして、実際この作品では、そのような非規範的なジェンダーのありようの、マイノリティが描こうとしているわけではなかった。さらに、そうと気づくまでのあいだにわたしが体感したのは、作り手が意図していないであろう字幕の効果によって、わたし自身も持つマイノリティ属性の人々が晒されてきた偏見や差別的な対応の再現だと見えることによる痛みだった。
こういった話が通じるだろうかという恐怖や抵抗感を抱えながら上演後、岡田さんをはじめ制作側の何人かに、Mx.という敬称が英語字幕で付けられた意図と、その点がいかに考慮されたかをわたしは尋ねた。その際、ここまで書いたようなジェンダークィアやノンバイナリーの人々が自分たちのありようを表す言語表現を生み出してきたことや、危険視されるような差別の状況についても伝えた。特にショックだった答えは、Mx. が採用された根拠が、「性別がないキャラクターだから」というものだった。「性別がない」や「第三の性」といった表現は、シスジェンダーではない人々を例外化し、異端視する文脈で使われてきた表現でもある。もちろん、プライドを持ってそういった表現を名乗ったり説明に使ったりするノンバイナリーの人々もいた/いるだろうが、シスノーマティブな社会側がそのように他者化してきたことに対して、あまりにも鈍感な返答だったと落胆した。
その落胆や痛みが何に、どこに由来するものかを考えるために、字幕とそれによる上演の見え方をめぐる問題を発端に、この記事では本作への批判を書いていく。
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まず、ノンバイナリー、ジェンダークィア、ジェンダーノンコンフォーミングといった呼称について、それぞれの違いは割愛するが、簡単に説明する。わたしたちの社会では、出生時にほとんどが、主に外性器と呼ばれる身体の一部を根拠に「女性または男性」どちらかの性別が割り当てられる。しかし、自分が属していると認識するジェンダー(ジェンダー・アイデンティティ;性同一性や性自認と訳される)が「男/女」ふたつのどちらかではなく、また、見た目、服装、ふるまいといったジェンダー表現においてもそういった二元の枠組みに当てはまらない人々が存在する/してきた。そのような人々が自己定義し、名乗られるようになったのがノンバイナリー、ジェンダークィア、ジェンダーノンコンフォーミングといった呼称だ。
出生時に視認で割り当てられた性別をもとに、「女の子/男の子はこう」といったジェンダー表現やジェンダー役割規範が期待され、そのように育てられる。そんななかで、自身の性に関するアイデンティティと一致しないため、性別を移行するトランスジェンダーである人々にも、ノンバイナリー、ジェンダークィア、ジェンダーノンコンフォーミングはいる。そして、ふたつのみに限られた「男/女」という規範的なジェンダーを疑問視し、そこから距離があったり超越していたりする非規範的なジェンダーがノンバイナリーやジェンダークィアだが、持続的にそう認識する人たちだけでなく、部分的に男性や女性に帰属意識を持ったり、男性的/女性的な容姿やふるまいをしたりする人もいる。Q;クエスチョニングやジェンダーノンコーフォミングといった、自身のジェンダーをわからない、決めない、決めかねている、流動的な人々とも近い。
『宇宙船イン・ビトウィーン号の窓』で「サザレイシさん」が英語字幕では「Mx. Sazareishi」と、ノンバイナリーやジェンダークィアのキャラクターだと理解できる表現になっているなかでの第一の問題点は、この文脈にある。「サザレイシさん」は、宇宙船の乗組員である地球人とは異なる存在、つまり「エイリアン」だとわかってくるのだが(「新潮」2023年10月号に掲載された戯曲では「地球外知的生命体」とある)、これはノンバイナリーやジェンダークィアといったジェンダーのマイノリティが「異物」として他者化されてきた歴史や現実を想起せざるを得ない。
英語字幕で、男性へのMr、女性へのMs、Miss、Mrsといった、ジェンダー化された敬称を冠されたのはふたつのキャラクターに対してで、ひとりは「サザレイシさん」と呼びかける地球人の乗組員側の「オニヅカ隊員」、もうひとりはかれらをサポートするヒト型ロボットの「ヨシノガリさん」だ。特に後者は、タンパク質を主な構成要素とする(この点についての話題が作中に存在する)地球人と同じ有機物的な存在ではないにもかかわらず、見た目が男性的だからか、ジェンダー化された敬称が付いていた。同じように有機物的な存在ではないキャラクターであっても、片方にわざわざ「Mr.」が付いているからこそ、より「サザレイシさん」に冠された「Mx.」にノンバイナリーやジェンダークィア、あるいは特定のジェンダーに当てはめられたくない人としての意味づけがあるのではと思わされた。
宇宙船の乗組員4人は日常着に近い服を、ヒト型ロボットのヨシノガリさんは作業着のような服をまとっていて、前者とやや区別がつけられているように見えるが、観客であるわたしたちに近い表象がされている。いっぽうで「サザレイシさん」は、演者の身体が細かな泡のようなものに包まれているように見える、観客が生きる現実における日常着とは言えない衣装だった。こうした点からも、ロボットはより人間に親和性の近い存在として見え、「サザレイシさん」がさらに他者化されているように受け取られる。
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ある個人が自分を表すために、または、その個人を指すために使わる彼女、彼、かれら、he、she、theyといった代名詞や、英語のMr、Ms、Mrsといった敬称も、その個人のジェンダー・アイデンティティを示すサインになる。それは、ノンバイナリーやジェンダークィアに限らず、シスジェンダーや、「男/女」二元のどちらかであるトランスジェンダーの人であってもだ。
また、必ずしも、代名詞や敬称をつけるのがすべての場面、すべての人にとって適切とは限らない。たとえば、女性的なジェンダー表現にさまざまなレベルで性別移行し、英語で表すならジェンダークィアが最も近いと感じているわたしは、関係性によっては敬称をつけないでほしいと感じることもあるし、英語のコミュニケーションでは便宜上they / herを選んでいるものの、特に日本語では、いずれの代名詞でもなく名前で呼ばれるほうがおおむね心地よいと考えている。ただし関係性によっては、わざわざ「代名詞で呼ばれるのは居心地が悪い」とまで指摘するほどでもない場合や、どう呼ばれても(たとえそれがhe / himやSirという男性をあらわす敬称であっても)まったく気にならない場面もある。
しかし、「サザレイシさん」に関しては、物語のうえでジェンダークィアやノンバイナリーだと名乗ったり、そうであろうとうかがえたり、自分のジェンダーについて語ったり示唆したりするエピソードはなかった。性的マイノリティの他者化が本作のテーマとして意識されて作られているとは言えず、Mx.と冠される必然性がない。「新潮」掲載の戯曲に併記された、岡田さんによる「作品に寄せて」においても、ジェンダーの政治性については一切触れられていない。Mx.の意味やその言葉が非規範的なジェンダーや性別を明かしたくない人々のあいだで使われるようになった背景を知らないと、「エイリアン・異物扱いされる」表象の暴力性は理解できないだろう。
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英語を中心とした、ノンバイナリーやジェンダークィアの人々のコミュニティ・文化圏を通して、「Mx.」という敬称は広がり、使われるようになっていった。自分たちを指し示したり経験を語ったりする言葉が、シスジェンダーで二元の男女を当たり前(シスノーマティブ)とする価値観が強固な社会の言語構造にはなかったからこそ、当事者のコミュニティでどういう言語表現が可能かが議論され、実践的に使われていき、今日に至る。いっぽうで現実では、いまだにさまざまな公的なステータスやサービス利用の際に、「男/女」しかジェンダーの項目の選択肢がなかったり、その二元にジェンダー化された「Mr.」「Miss. / Ms. / Mrs.」といった敬称の選択肢しかなく、ノンバイナリーやジェンダークィアの人々の存在はないものとされる場面が多い。
にもかかわらず作中で性別について一切述べていない「サザレイシさん」が、英語字幕のうえで、非ノンバイナリー・非ジェンダークィアであろう人々から「Mx. Sazareishi」と名付けられる。新しい言葉の創造や普及によって、自分たちの存在を可視化しようとしてきた現実の政治的実践が、収奪されていると見える形式になってしまっているのが第二の問題点だ。自分たちの存在がないものとされる社会で、自ら名乗ってきた歴史・文化的背景を考慮すると、「名付ける」という形式は危うい。
たとえば、アメリカでは、黒人の人々について、黒人(ブラック)や、アフリカン・アメリカン、ブラック・アメリカンといった呼称があるが、それぞれの背景にある民族、国家・地域、文化的なルーツやその呼称が一般に受け取られる意味があり、いずれを名乗るそれぞれの人々がそれらを考慮したり、しなかったりするなかで名乗ってきた。また、自分たちの文化圏のなかで、白人の社会からの蔑視や差別意識から投げかけられてきた「Nワード」をポジティブに言い換えるように名乗って引き受けてきた。白人という特定の社会的集団が権利や機会へのアクセスが優位である社会で、それらが乏しく、また差別や暴力を受けてきた黒人という従属的な集団のコミュニティから、そうであるからこそアピールしてきた文化的な営みや、新たな言葉づかいや言説の構築といった創造がある。
トニ・モリスンがかつて、〈物語る声〉について、〈黒人社会で生起することがらの半分も英語で描写しうたいあげることができない。現在でも黒人共同体の暮らしには言葉で描写できないことが、定義する言語がないことが多い。社会科学の対象となるべき事象、現象なのにそれを定義できる、適切な用語が存在しないのね。そういう事象、現象は認識されない。偏見のある目には見えない。詩人でも表現しきれないようなこと。新しい言語が生み出される必要がある〉と発言していたように(藤本和子『塩を食う女たち 聞書・北米の黒人女性』、岩波現代文庫)。
こう考えると、「サザレイシさん」に対して「性別がない」あるいは「性別が不明だから」と「Mx.」と呼びかける、あるいは名付けるという行為は、社会・文化的な背景への敬意や知識に欠け、さらに暴力的な呼びかけになり得ると指摘するのは妥当だろう。
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わたしが問題を指摘した後に、制作チームで議論がされたそうで、先日制作会社のプリコグの担当者からわたしはメールをもらい、英語字幕の「Mx.」について、以下のような説明を受けた。
「翻訳者は、マイノリティについて含め社会的な課題や議論にも非常に意識的であるため、“翻訳”の問題としては『性別不明であり、かつ丁寧に接する関係性を表したいという設定』に対して“Mx.”を用いることには問題ないとしている。また、翻訳者として働き、英語のニュアンスのわかるメンバーも含めて、制作チームで議論し、敬称がなくても問題はないという結論に至った。誤解を生まないためにも、今後の上演でも“Mx.”をつけないことにする」
(メール内容そのままではなく、筆者による要点のまとめ)
上演を観たり、戯曲を読んだりすると「サザレイシさん」がノンバイナリーやジェンダークィアではない(そういう存在として描かれていない)とわかるが、仮にそういう存在であることを前提とした作品だったとしても、いきなり「Mx. Sazareishi」と呼びかけるのは、丁寧に接するどころかかなり危険な行為だ。現実の英語圏での、ジェンダーのありようのマイノリティである人々に配慮したコミュニケーションだと、いきなり勝手に敬称をつけるのではなく、「あなたの代名詞(pronounce;ノンバイナリーやジェンダークィアの人々には単数の三人称they/themが使われることが多い)はなんですか?」と尋ね、そのうえで敬称を付けるだろう。仮に、出会ったばかりの誰に対しても「性別を明かされたくないかもしれない」と考慮し、「Mx.」と呼びかけたとしても、確認を取るといった段階を踏むと考えられる。しかし、そもそも作品の主題ではないのだから、創作過程においても、字幕を取ると判断した際にも、そのような改変の提案や検討自体がなかったのではないかと考えた。
さらに、物語上「サザレイシさん」は「エイリアン(地球外知的生命体)」として扱われ、凶暴度や知的レベルを調べられ、他者化される。他者化は、社会規範に不適合とされる存在を社会制度やインフラから排除し、周縁化する。歴史的に他者化の表象は、絵画や版画といった古典的な芸術や、広告や映画・テレビドラマといった現代的な文化・芸術、エンタテインメントを通して、ある特定の人々に権力や機会を集中させる制度や規範の維持のために、「社会の敵」を作り出す象徴的なイメージとして生み出され、利用されてきた。男性に対して女性が、白人に対して黒人をはじめ、エスニシティやネーションのマイノリティが(日本の場合、「日本国民」に対して在日コリアンや中国や台湾の人々が)、ヘテロセクシュアルに対して同性愛が、そしてシスジェンダーに対してトランスジェンダーの人々が、貶める対象として扱われてきた。
トランスの人々やトランスしたノンバイナリー、ジェンダークィア、ジェンダーノンコンフォーミングの人々に対して、「犯罪を招く者」あるいは「犯罪予備軍」のような扱いをする傾向が世界的に増えている。日本でも特にこの5年のあいだ、Twitter(現X)をはじめとするSNSや、ゴシップメディアや、時に主流のメディアにおいても含め、ネット空間でデマ、偏見、差別意識による暴力的な言説や排除言説が広がっている。
おそらく英語字幕さえなければ、物語上は、差別される・周縁化される者としていま現在の社会には存在しない、架空のものとしての「地球外知的生命体」を、地球人である乗組員たちと対置する他者として登場させたに過ぎないのだろう。しかし、「Mx.」を使う以上、ジェンダークィアやノンバイナリーの人たちによってこの敬称が使われるようになった背景に、言語上、社会に存在しないものとされてきた他者化の歴史があった/あるという点と、審査される・存在を疑われる視線を向けられる「サザレイシさん」の表象が結びつく危うさを考慮し、検討する必要があったはずだ。
*
日本語の戯曲上、「サザレイシさん」と名付けられる経緯は、「サザレイシさん」の
〈わたしはこのときわたしのやりかたで、空気のヴァイブレーションは無論のこと、真空のヴァイブレーション、ダークマターのヴァイブレーション、それらの綯い交ぜとなったわたしなりの語り口で、構文で、彼らに語りかけていた。だが彼らは、それを捉えるレセプターを持ち合わせていない。〉
というセリフのように、日本語(地球の言葉)話者である乗組員たちの使う言語、コミュニケーションツールが異なるためだ。
「異物扱い」され、凶暴度や知性レベルを計られ、「安全で、宇宙船のプロジェクトである、文化継承の目的に適った存在」と認識された後に、「サザレイシさん」が、乗組員によって名前を冠されるという作品構造もいびつに見える。つまり、マジョリティ側の都合と審査を経て、コミュニケーションの利便性をあげる個体識別のために、一方的に名指されるということではないだろうか?
そして、「正しい言葉づかい」というテーマと、「サザレイシさん」への審査の視線とが結びついたとき、百年前の関東大震災後のデマが起きた際に「正しくない(“標準語”;東京の訛りの言葉ではない)日本語」を話す人々、主に朝鮮半島や中国出身の人々が虐殺された事件がわたしには連想された。実際「性別が不明だから」と怪しまれ、殺害されたり、社会空間から排除されるノンバイナリー、ジェンダークィア、それらを含むトランスジェンダーの人々の現実とも無縁ではない。
ここまで説明してきたように「サザレイシさん」にMx.という敬称をつけることによって、英語字幕を含めた舞台表現が「ノンバイナリーやジェンダークィア」が登場する物語と意味づけられ、そして凶暴度や知性レベルを測られたり名乗りを奪われたりするという、差別的な表象になると読解できる知識が翻訳者、プロデューサー、演出家はじめ制作チームに欠けていたと評価するのは妥当だろう。シスジェンダーであることが当たり前で揺るぎないが世界において、ノンバイナリーやジェンダークィアの人々がかろうじて作り上げてきた文化から出てきた言葉を使うにあたって、安易な仕事だったのではないかと省みる必要を感じる。
*
わたしが観劇した翌日、8月7日の東京の千秋楽では、「Mx.」の字幕は取られていたと聞いた。取ってしまっても問題ないのは、ここまで説明してきたように、作品がそのような表象やその表象を使って何らかのテーマを描こうとしてきたわけではないのだから、当然だと思う。クリエーションの過程で、ジェンダーとそのマイノリティに関する政治や歴史に詳しいスタッフがいたり、監修が入ったりすることで、「サザレイシさん」に「Mx.」と冠されるのは不適切、と判断されるといった、検討のプロセスがあって取られた場合は、問題はなかっただろう。
ただし、この件については、それでなかったことにして終わり、という話ではないと思う。
わたしが観た時点ですでに4回の上演後だったが、それまでの観客がこうした決定的な問題点を理解せずに、好意的にしろ批判的にしろ、評価してしまう危険があるからだ。また、その4回の上演や、わたしが観劇したのと同じ回に、この問題に気付き、自身もその表象に傷つきながらも、何らかの理由で声をあげられなかった観客が他にもいたかもしれない。」
ジェンダークィアであるわたしもそうだが、社会的な従属集団という意味でのマイノリティである、ノンバイナリーや、それらも含むトランスの人々は、Mx.といった言葉が生まれた文化・社会的な背景から逃れられず、いまだに差別や偏見が蔓延する社会で生きていかなければならない。問題を指摘されたから、面倒になったから消すと、個人の裁量でそれ(ここでは「Mx.」)を利用し続けない「選択の余地」がある自身の特権に気づくところから始める必要があるのではないか。
また、英語が理解できる・その言語を使って仕事ができる能力があるということと、英語の表現のなかの、マイノリティの文化圏の言葉づかいとその歴史・文化的背景への理解があることのあいだには大きな隔たりがある。
*
本作は、言語の使用や発話と、その政治性を非常に意識した作品だ。その政治性から展開して考えていくと、法律、政策、制度、教育などを担う能力としての言語を統べる人が、国家をまとめていく立場に就きやすいという問題点にも行き着く。そういった役割を担うことを期待されず教育機会に恵まれてこなかった女性や、就学機会を得にくい立場の人々らが、法や政治、決定権を得る中枢にアクセスできずにきた歴史を思い出してほしい。
この文章を書く1ヶ月余りのあいだに、「Mx.」という敬称が主に英語圏で使われるようになった記録について、わたしは「正式な歴史」のようなものを見つけられなかった。あったのは、英語の記事や、それをもとにした日本語のブログ記事のようなもので、もしかしたらそれを出すと「信頼に足るものではない」と見なされるのではないかと不安を抱いた。わたしが指摘していることは根拠に乏しく、不確かで、大げさに騒いでいるだけなのではないか、と。
しかし、そもそも日本語の文化圏においても、英語をカタカナにしたトランスジェンダーや、トランスする人もいるノンバイナリーやジェンダークィアに当たる人々のうち、少なくない人々が英語圏の言葉を手がかりに、自己認識したり、それによって自己肯定をしたり、他者と関わるうえでの語りや説明のための言葉や言説を作り上げていく。それらが必要ではない人たちにとって、新しいと認識される言葉や言葉づかいが、既存の社会において“標準的な使い方”として辞書のような「正式な解説」に登録されるまでに時間がかかったり、その登録された言葉や用例が忌避されたりする。さらに、その“標準的な使い方”を判断するのは多くがマジョリティだ。
そう考えたとき、何のアナウンスもなく「Mx.を取ればいい」という判断は、「日本語を聞き取れる観客」しか実際には考えていないのではないか、とすら思えてくる。
「サザレイシさん」の
〈とどのつまり、要するに、音楽とは、喩えるならば、こういう感じだろうか。
自分のわかる言葉で書かれている本。わかる言葉で話されている映画。
それであれば翻訳は要らない。字幕は不要だ。
しかしながら、それでもやはり、
別の言葉に翻訳されているのかが、気になるは気になる。
それと同じ具合に、今のわたしも、
空気のヴァイブレーションが果たしてどのように、
〈音〉なるものへと翻訳されているのかが、気になるは気になる。〉
というセリフを読みながらこの問題について考えていると、字幕をつけておきながら、その他の言語や言葉づかいといった文化への理解、それらを使う人々への尊重や配慮が不十分なのではと考えた。
舞台手前、客席側に無垢材と思われる横長のそっけない木枠が置かれ、それは作品のタイトルになっている「窓」だと見える。その窓を通して観客は、作中の宇宙船内部を覗き込む。その観客の多くは「日本語を理解して聞き取れる観客」であるはずだ。その観客たちや、作り手が、地球外知的生命体のサザレイシさんが船内に入り込み、地球人である乗組員とコミュニケーションを取る様子を覗き見る行為が、単に安全圏から何か物珍しいものを観察するだけに終わってないだろうか?
前述した岡田さんの「作品に寄せて」によると、〈四人の宇宙船乗組員の役は日本語を非母語として話す俳優たちによって演じられ〉、〈ロボットの役と宇宙人の役は、日本語のネイティヴ・スピーカーである俳優が演じた〉という。日本語を第一言語とするか、そうでないかという点だけ見ると、前者は後者よりマジョリティとされるだろう。しかし、人種主義や植民地主義の歴史を考慮すると、前者の中や、前者と後者のあいだでの出身地域や民族的ルーツや肌の色といった差異が、演者の主体性とマイノリティ属性をめぐる政治が、揺るぎないものとしては見えなくなる。作中で他者化されるのは確かに後者で、日本語を第一言語とするという点で現実ではマジョリティだが、そう単純には見えない。
そうした複層性が読み取れる作品だからこそ、単に「Mx.という敬称を取った」ということにとどまらず、作品が自分の持つ属性から見て、それとは違う属性の人々と生き延びるための創意工夫や不可視の歴史と現実を認知し、尊重するよりも、得体の知れない他者として観察や名付けの対象にしたいという植民地的な欲望に応える作品になってしまっている点も付記しておきたい。
*
わたしはチケット代を払って観て、この指摘を書いているが、クリエーションの一員として稼ぎ、好意的な評価を得ている側の人間が、まず自身のクリエーションにおいて使われる言葉や、その効果や意味を検討する必要があったし、問題を指摘された後ならば、そのことをきちんと公表したうえで「取る判断をした」説明をするべきではないだろうか? 「アクセサリー」のように付けたり外したり「選択できる」としか考えていない点にこそ、問題認識や理解の不十分さがうかがえる。
さらに、こうしたことを指摘できる人が、一般の観客のなかにはもちろん、観劇した批評家、広報を担う面のあるライター、どの作品、どの作家・演出家の創作を上演にかけるかを判断する力を持つ芸術祭のキュレーターや劇場のタイトル選定担当といった演劇・舞台芸術の「プロ」のなかにも著しく乏しいという、業界全体の問題もあると思う。わたしが探した範囲では、本作を観た感想や批評のなかに、こうした指摘をする人は見当たらなかった。これらの人々にも、気づかずにいられてきた特権があるのではないか。
*
ここまでは、特定の作品の制作過程とその表現における問題点と、ただし、個別の問題に矮小化せず、それらを取り巻く業界や、そこから生まれる作品を受容し、消費する観客を生む社会全体の問題を視野に入れ書いてきたが、最後にひとつだけ個人的な感情の動きにも関わる話題を書きたい。
久保豊さんが「映画芸術」2023年夏号で、是枝裕和・監督、坂元裕二・脚本で第76回カンヌ映画祭でクィア・パルムと脚本賞を受賞した映画『怪物』に関して、このような心情を綴っていた。
〈『怪物』を「傑作」と讃える映画批評が並ぶ傍らで、解釈の一つとして『怪物』の結末が性的マイノリティの子供たちへ紐付ける悲劇性について、映画史や製作及び宣伝を含む映画産業の側面から光を当てる行為は孤独であり、苦しさと鈍い痛みを伴〉うのだと(久保豊「心を空っぽにしながら、ナマケモノはクィア映画の夢をみる」)。
長くなるが引用を続ける。
〈映画批評を書くことは、ある種の感情労働である。それは映画分析において、書き手の感情を可能な限り管理することを意味する。分析対象の映画作品のなかに書き手と近い属性の、または、類似する体験を共有する登場人物の存在感が強ければ強いほど、その表象は書き手の心を激しく揺るがしかねない。その動揺によって批評の客観性を失うわけにはいかないからこそ、感情を抑制することで説得力の確保が目指される。〉〈しかし、その過程で一部の書き手が経験するのが、(中略)「感情の消化不良〉で、〈感情労働に従事するなかで自身や環境から発生する副産物としての悲しみ、怒り、悔しさ、残念さといった感情を飲み込み、他者の前ではそれを表には出さない。〉〈そのトラブルは、特に批評に携わる者が自身のアイデンティティを一部構成するマイノリティ属性を描く作品が抱える問題を指摘する際に身体化されやすい。〉〈映画を見る行為が(物語空間内で無批判に描かれるある特定の被差別属性の人々に対する)暴力のイメージを(中略)頭に押し込んでくるのを避けられず、映画を構成するイメージが観客に対して有する圧倒的な力に喰われた。〉
(引用カッコ〈〉内のカッコ()は筆者による補足)
映画を「演劇」あるいは「舞台芸術」に置き換えたとき、これらの久保さんの文章は、まさに今回の文章を綴るわたしの内側に湧いてくる叫びたいような心情を表す言葉でもある。差別の実態やそうした歴史のなかから出てきた言葉が、「字幕なので(その被差別属性を持たなかったり、気にせずにいられたり、日本語で言葉を聞き取れば問題なく楽しめたりする観客としては)作品自体とは関係がないから」ということで見過ごす人々のほうが圧倒的に多い。そして、商業的に、あるいは/または同時に、美的に「優れている」とされる。そんななかで、分析対象である表象に登場する、自分と近い被差別属性・被差別体験を持つ書き手(わたしや久保さん)が、声をあげることの孤独と痛みも計り知れない。なぜならほかに訴える人がほとんどいないから、その孤独や痛みがどの程度のもので、正当かどうかを検討すること自体が難しいからだ。
それでも、「被害者意識」と見なされ、敬遠される可能性を考慮しながら、説得力のために抑制しなければならない。このような、書き手といった労働者として弱い立場(つまり仕事を受ける側)にあるため、実際に公の場で批判することでその後の仕事がどうなるかといった不安や心配が常にある状況に対する無関心や鈍感さこそが、マイノリティとして他者化される人々を暴力的な状況に置く構造を維持しているのだということは、もっと考えられるべき課題ではないかと思う。
ただし、これは、「わたしの感情が害されている」という点に収斂される問題ではない。また、こうした「発表された特定の作品」や「問題のある作品を制作、発表した特定の個人・チーム」の問題にのみ矮小化するのではなく、構造的な問題がトキシックな人、作品、出来事を生んでいるという点を改善する視野が必要だ。
同作は、2023年9月末に始まる国際的な舞台芸術祭「KYOTO EXPERIMENT」でも上演される予定だ。日本国外からも観客が訪れ、その多くが海外の劇場や芸術祭のキュレーターやプロデューサーといったパワーを持つ人々であり、つまり「どのような作家・作品が評価に値するか」という権威的な場で公開されるということだ。そうした機会の前に、ここまで書いてきたような、表には出ていない問題点を公にすることは、「評価」自体を問い直すという意味でも重要だと考えている。ジェンダークィアやノンバイナリーといったマイノリティの人々が不可視化されてきた社会と向き合わず、「字幕からMx.という敬称をとってしまったとしても上演上も問題ないだろう」と、まさに不可視化するその創作過程も、作品の評価と結びついているはずだとわたしは考えている。
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