存在しないものとされた言葉を『SHE SAID』
今年に入って、マリア・シュラーダー監督の『SHE SAID / シー・セッド その名を暴け』を2回観た。はじめはTOHOシネマズ新宿で、それから下高井戸シネマでもう一度。
この映画は、2020年に日本語翻訳も出た『その名を暴け #MeTooに火をつけたジャーナリストたちの闘い』(古屋美登里訳、新潮社)を原作とする。俳優のローズ・マッゴーワンが、ハリウッドの著名なプロデューサーであるハーヴィー(ハーヴェイ)・ワインスタインから性的な暴行を受けていたという情報を2017年に得た、ニューヨークタイムスの記者で、同書の執筆者であるジョディ・カンターとミーガン・トゥーイーが調査報道をするという物語だ。
主演のゾーイ・カザン、キャリー・マリガンはもちろん、編集のレベッカ・コルベット(原作の書籍の著者にも名を連ねている)を演じたパトリシア・クラークソン、サマンサ・モートンもとてもよかったし、アシュレイ・ジャッドにも揺さぶられた。またコルベットの衣装は、いつも首に重そうなネックレスがかけられていたのが印象的で、終盤の動きとの対比に効いていた。日本の映画業界とも無縁ではなく、聞かれるべき声の沈黙を思い知らされる。
80年代後半から90年代にかけて、当時新興の映画プロダクションとして名を馳せたミラマックスの経営者だったハーヴィー・ワインスタインによる、複数の仕事関係者の女性たちへの90年代からの性暴力・虐待についての調査報道を軸に、この映画は実録ドラマの域を越えた大きなビジョンを提示している。それは、社会的なマイノリティである女性や、そのなかでも若者やエスニック・マイノリティに向かう蔑視や暴力を許容し、保持する映画産業や社会構造を問題視し、抵抗しようとする姿勢を示すこと。
単なる告発のスキャンダルとして感情を煽ったり、社会正義の訴えを観客に共感させたりするような一面的なプロパガンダ映画にとどまらず、調査報道ドラマのスリルを、セリフや物語のスジ以外の随所に暗喩として仕込んでいて、視覚芸術の文体や技巧の強度を高めようとする点が、この映画をさらに優れたものにしている。現実に起きた出来事について、尊厳を求める声や痛みの声をあげられたり、あげられなかったりした/している個々の女性たちへの敬意を払いながら、映画としての工夫が随所に散りばめられていて、絶妙なバランスの象徴化にも成功し、普遍的な物語として編み上げられていた。
調査するカンターとトゥーイー両記者、示談の合意にともなう法的制限によって沈黙を強いられている女性たち、アシュレイ・ジャッド、ローラ・マッデン、ゼルダ・パーキンス、ロウェーナ・チョウ、そして、元アシスタントのクィーンズの女性はじめ、名前も出せない人たちらの語りには常に緊張感と不安が漂う。
不安や沈黙を強いられている状態は、ニューヨーク・タイムズのオフィスでファクトの積み上げと進捗確認のあいだ記事を書けずにいる記者たちをガラス越しやビルの外から映すショット、インタビューの席以外のテーブル上に椅子が置かれた社内のカフェテリア、人気の少ないレストラン、夜道、そのそばを通る人影、風に揺れる髪の毛、ひとりきりの部屋などからもうかがえる。視覚的にその不安のムードが幽霊のように込められた映像によって、事実を元にしているのだから「解決」の展開はわかっているはずなのに、常に監視の檻に閉じ込められているかのような感じがした。
ちょうどわたしはカナダの学者レスリー・カーンによる『フェミニスト・シティ』(東辻賢治郎 訳、晶文社)を読んでいたところで、『SHE SAID』の主役のふたりトゥーイーとカンターが歩く都会の街並みに、感じ入るものがたくさんあった。
地方の田舎の社会における、女性はじめマイノリティの職の選択肢の乏しさや偏ったジェンダー規範、強すぎる地縁から解放され、豊富な選択肢がある一方で、匿名性や無規律さの自由や楽しみが得られやすいものの、ひるがえって予測不可能な不安も存在する、という都市の葛藤は、複数の面でマイノリティとしてのわたしにも想像がつくものだ。
また、カーンが引く、地理学者のキム・イングランドによる、〈ジェンダーロールは「コンクリートの景観の中に化石のように埋め込まれている。住居、仕事場、交通機関などの配置や、全体的な都市のレイアウトには、どのような場所で、誰が、いつ、どんな行動をとるのかについての家父長主義的な資本主義社会による想定が反映されている」〉という指摘も重要だ。〈夫および父親として一家の収入を稼ぐ、健常な体をもった、ヘテロセクシュアルで白人でシスジェンダーの男性〉を「典型的な都会の住人」と想定され、都市空間はデザインされている。
ニューヨークのような都市空間をトゥーイーとカンターが調査をしながら歩く姿は、『フェミニスト・シティ』で紹介される、〈都会の群集に溶け込み、思うままに通りを行き来しながら、周囲と距離を置いた傍観者の身分を楽し〉める遊歩者(フラヌール)という都会的な人物像になりそうなのに、二人以外の街を歩く無名の女性たちにすら、常に不穏を感じられる。この映画が、女性という属性ゆえに向けられた性暴力の被害をテーマとし、その調査をするのが女性である記者、つまり自身もそうなり得た/なり得るという予兆が通底するからだろう。匿名的なフラヌールになれる「典型的な都会の住人」は、有徴化されたマイノリティを脅かしかねない。
もっとも直球で、性的なハラスメント、暴行の苛烈さがあらわされていたのは、ワインスタインの狡猾な誘いの(実際の?)音声がひたすら響く、ペニンシュラの廊下の静かなショットに重ねられたシーンだ。『プロミシング・ヤング・ウーマン』同様、暴力や虐待のシーンはないけれど、経済的に豊かでなければ泊まれず、安全性が保たれていると期待できるはずの場なのにそうではない、ということを示していて、豪奢なホテルの廊下を映し続けているだけで、ワインスタインの暴力の残忍さが際立つ。被害者には、このワインスタインの声が、何度も何度も、何年にもわたって、ずっと幽霊のようにまとわりついているのではないかと想像させられる。
洗練されていて、文化的に豊かで、規範から解放されやすいと思われているエンタテインメントや芸術に関する映画産業において、しかし実は、女性にとどまらず、さまざまなマイノリティである人々の生きにくさが根深く存在する社会構造の映し絵であると、この物語は示唆している。
それは、実際ハーヴィー・ワインスタインから性的なハラスメントにあい、キャリアを潰されたと告発したアシュレイ・ジャッドが、トランプ政権誕生後の2017年1月のウィメンズ・マーチで行なったスピーチのニュース映像に表れている。女性蔑視や差別のみならず、白人至上主義や特権をふまえた人種主義による差別、同性愛嫌悪、トランスジェンダー嫌悪*、利害が対立させられてるかのような構図へのジャッドによる批判的なスピーチをはっきりと挿入した演出は、暴力を容認し、沈黙を強いる差別構造の範囲が多岐に渡るという、作り手が持つ問題意識の射程の広さの証明だと思う。
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なお、トゥーイーがNYタイムスで2022年の11月に共同執筆した、トランスジェンダーである思春期の若者に対する、ホルモンブロッカーについてふれられた記事は、トランスジェンダーの健康のための医学的な専門家やトランスのアクティビストからは、誤った知識をもとに書かれていて、ホルモンブロッカーが実際よりも危険なものだと世間に広めてしまうと批判され、モラルパニックを誘発し、トランスに関わる現実への恐怖を煽るプロパガンダの懸念が指摘されている。ホルモンブロッカーは、性別違和を訴える人々の第二次性徴の発達を止め、違和を緩和するために使われる薬で、治験を経て認可されているため安全性が一定程度保障されていて、妊娠に関わる機能の成立や維持において不可逆なアンドロゲン、卵胞ホルモンや黄体ホルモンとは異なり、可逆性があるため、性別違和が一時的なものだった場合に、性徴期に戻れるとされている。
また、ミラマックスに財務担当としてかつて在籍していたアーウィン・ライターに、ジョディ・カンターがインタビューするとき、(現実に起きた会話かどうかは調べられてないけれど)ふたりの共通点であるユダヤ系としての語りは、「沈黙するしかない抑圧」を敷衍させた非常に象徴的なエピソードだと思った。
このあたりのわたしの読解については、2月に読んだタリア・ラヴィン『地獄への潜入 白人至上主義者たちのダーク・ウェブカルチャー』(道本美穂 訳、柏書房)からの影響も大きく受けていると思う。
映画の中で痛切だったシーンのひとつに、大したことないと思われることがしんどい、という被害者の語りだった。わたしもそう感じる経験が何度かあったし、いくつか過去の出来事を引きずって、今でもそういう心境になる。
誰かに傷つけられたとき適切な謝罪のプロセスにおいて、内省したうえで、その謝罪を受け入れるかどうかなど、相手がどのように振る舞うかをコントロールしようとせず、謝罪の結果がどうなるかを手放し、自分が起こしてしまった危害を再現しないような行動変容に努めるということが、傷つけられた側の癒しには必要なのだと思う。最近知り合った、ニューヨークのブルックリン在住で中華系オーストラリア人の作家ミミ・ヂューの著書“Be Not Afraid of Love”(未翻訳)の6章「恥(Shame)」を読んでいて、やっと整理して言語化できるようになった。
そこではアカウンタビリティ(accountability)という言葉が何度か登場する。
アカウンタビリティわたしがはじめて聞いたのは、2019年のことだった。ある集団で起きた、ある属性を持つ特定の個人が、その属性に関わるコミュニケーション様式がその集団のなかでまかり通っていたために孤立感を味わってしまっていたり、その属性に関わる話題において言葉づかいによって嫌な気持ちになったりするようなできごとがいくつかあって、その指摘にもかかわらず、その集団で声の大きい人、主導する立場にある人、文化・社会的に多数を占める属性を持つ人々が、その改善のために具体的に動いてくれなかった。そういった文脈で、その集団において「アカウンタビリティが果たせていない」という責任追及がされている、という話を聞いたときだった。
同じく「責任」と訳せるリスポンシビリティ(responsibility)との違いは、アカウンタビリティが、決定や結果といったすでに起きた出来事をもとに、その決定や結果についての説明を行うという責任の取り方であるのに対して、リスポンシビリティは、これから未来に起きる/起きうる出来事や決定の責任の所在を指す、というニュアンスでわたしは理解している。
わたしは、ある日本の映画産業の会社で、ハラスメント対策について監査する役員として1年ほど勤めた経験があった。
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